翻訳と辞書
Words near each other
・ ホトクロミズム
・ ホトケドジョウ
・ ホトケノザ
・ ホトゴチン
・ ホトタタライスキヒメ
・ ホトチャンネル
・ ホトチンコスープ
・ ホトトギス
・ ホトトギス (曖昧さ回避)
・ ホトトギス (植物)
ホトトギス (雑誌)
・ ホトトギスの仲間
・ ホトトギスガイ
・ ホトトギス属
・ ホトトギス目
・ ホトトギス社
・ ホトリアーゼ
・ ホトルミネセンス
・ ホト親父
・ ホド


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ホトトギス (雑誌) : ミニ英和和英辞書
ホトトギス (雑誌)[し]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ざつ]
  1. (adj-na,n) rough 2. crude 
雑誌 : [ざっし]
 【名詞】 1. journal 2. magazine 3. periodical 
: [し]
  1. (n,n-suf) records 2. document 3. magazine 

ホトトギス (雑誌) : ウィキペディア日本語版
ホトトギス (雑誌)[し]

ホトトギス』は、合資会社ホトトギス社が発行する俳句雑誌1897年明治30年)に正岡子規の友人である柳原極堂が創刊した。夏目漱石小説吾輩は猫である』、『坊っちゃん』を発表したことでも知られる。明治期には総合文芸誌として、大正昭和初期には保守俳壇の最有力誌として隆盛を誇った。
==歴史==

===戦前===

*1897年(明治30年)1月15日海南新聞社員柳原極堂が松山で創刊。雑誌名は正岡の俳号「子規」にちなんだもので、創刊時はひらがなで『ほとゝぎす』。子規、高濱虚子河東碧梧桐内藤鳴雪らが選者であった。
*1898年(明治31年)10月 場所を東京に移して高濱虚子が継承する。
*1901年(明治34年)10月 雑誌名を『ホトヽギス』とする。
*1902年(明治35年)9月19日 子規没。
*1904年(明治37年)10月 岡本癖三酔選者となる。
*1905年(明治38年)1月 漱石『吾輩は猫である』連載開始、大好評を博す。10月 寺田寅彦『団栗』掲載。このころより虚子小説に傾倒、碧梧桐新傾向色を強める。
*1906年(明治39年)1月 伊藤左千夫野菊の墓』。4月 漱石『坊っちゃん』。5月 鈴木三重吉『千鳥』。8月より碧梧桐第一回全国行脚。9月 小泉八雲『海のほとり』。
*1907年(明治40年)1月 漱石『野分』。2月 野上八重子(弥生子)『縁』。11月 長塚節『佐渡が島』。このころ浅井忠竹久夢二が挿絵を描いている。
*1908年(明治41年)10月 漱石『文鳥』(ただし他誌からの転載)、松根東洋城選者となる。
*1909年(明治42年)から小宮豊隆安倍能成らの批評が連載される。4月より碧梧桐第二回全国行脚。7月をもって雑詠欄廃止。
*1910年(明治43年)4、6月 イプセン『社会の柱』。9月号発禁処分。
*1911年(明治44年)4月 阿部次郎『狐火』、森田草平『御殿女中』。10月 雑誌名を『ホトトギス』とする。碧梧桐編集より離れる。
*1912年(明治45年)7月 虚子選雑詠欄復活。川端龍子挿絵を描くようになる。
*1913年(大正2年)3月 徳田秋声『南国』、虚子俳壇復帰。5月 田山花袋『椿の花』。6月 泉鏡花『菎蒻本』。7月 正宗白鳥『臆病者』。8月 虚子が嶋田青峰に編集の一切を任せることを表明〔秋元(1966):130ページ〕。10月 森鴎外『護持院原の敵討』。11月 バーナード・ショー『悪魔の弟子』。
*1914年(大正3年)4月 徳田秋江『青草』。
*1915年(大正4年)1月 飯田蛇笏村上鬼城が雑詠欄巻頭を飾る。7月 小川未明『藪陰』。
*1916年(大正5年)4月以降東洋城ホトトギスより離脱。12月9日 漱石没。
*1917年(大正6年)1月 杉田久女の句掲載。
*1919年(大正8年)8月 芥川我鬼(龍之介)の句掲載。9月 神陵俳句会(翌年より京大三高俳句会)結成。
*1920年(大正9年)2月 嶋田青峰ホトトギス社を退社、編集から退く〔秋元(1966):134ページ〕。
*1921年(大正10年)4月 日野草城の句掲載。
*1922年(大正11年)4月 山口誓子水原秋桜子東大俳句会結成(帝大俳句会の再興)。
*1923年(大正12年)1月 発行所を丸ビルへ移転。8月 水原秋桜子『海辺にて』。9月1日 関東大震災
*1924年(大正13年)1月 山口青邨『山の手から』。8月 阿波野青畝『風懐を養うこと』。
*1925年(大正14年)10月 吉岡禅寺洞、芝不器男ら九大俳句会結成。
*1926年(大正15年)1月 山口誓子『我が小さき芸術観』。高野素十ら雑詠句評会に参加。
*1927年(昭和2年)岸田劉生川端茅舎表紙、裏表紙を描くようになる。
*1928年(昭和3年)7月 東大俳句会機関誌を「馬酔木」と改題、水原秋桜子が主宰。
*1930年(昭和5年)6月 星野立子により姉妹誌『玉藻』創刊。7月 中村草田男『生き物三つ』。
*1931年(昭和6年)4月 星野立子『どんぐりの芽』
*1933年(昭和8年)12月- 川端茅舎『花鳥巡礼』。
*1935年(昭和10年)安田靫彦表紙を描くようになる。
*1936年(昭和11年)1月 中村汀女ら『余生病院』。10月 日野草城、吉岡禅寺洞、杉田久女をホトトギス同人より除名。フランスを中心に海外詩人による俳句が掲載されるようになる。
*1937年(昭和12年)2月1日碧梧桐没。4月より外国俳句座談会連載、虚子の句のフランス語訳の試み。小川芋銭石井柏亭表紙、裏表紙を描くようになる。
*1938年(昭和13年)3月 正宗白鳥『最も痛烈に感じた』。4月 永田青嵐『現代徒然草』。津田青楓裏表紙を描くようになる。
*1939年(昭和14年)6月 京極杞陽『蓄音機』。小林古径表紙を描くようになる。
*1940年-1943年(昭和15-18年) 新興俳句弾圧事件
*1945年(昭和20年)6-9月 休刊。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ホトトギス (雑誌)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.